病院か!、、、、、、、、、、公園か!
明治3年5月この焼け野原が、大学東校の病院建設用地に決まった。明治4年オランダの一等軍医ボードワン博士が建設用地を視察に「こんな幽邃(すい)な土地を潰して、病院をたてることは途方もない謬(びゅう)見である」と即座に反対、政府に公園の建設を建白した。
また、不忍池は1945年敗戦後、池の一部に稲が植えられ「不忍田圃」の異名がついた。
続いて全面干拓論や野球場新設の猛運動などに脅かされたが、上野観光連盟の秋葉潤壮会長ら地元有志の熱い気持ちにより昔ながらの風致を確保できた。
上野公園100年記念